zabitaroのブログ

まじでありのまま

流星をみて落書き

耐えきれず国家試験の勉強会抜け出した。

星が見える海岸へと車を飛ばした。

極寒の中裸足クロックスで堤防に寝転がって空を見た。

双子流星群心躍らせながら待ち続けた。

寒さで露出部分が赤黒くなった。

そんな時緑色の閃光が降ってきた。

もはや花火かと思うくらいの光量で轟々と音を立てながら降って来た。

思わず唱えた言葉は共作。

巨大な野菜が降ってきた



絵本すなわちネバーランド

最近は絵本愛好家の大人が増えて来てるらしい。

 

この前本屋さんをぶらぶらしてたらひと気は異彩を放つ作品が陳列されてるコーナーに出くわした。

エドワードゴーリーという作家の絵本が並べてあり、非常に気になって手に取ってみたら衝撃を受けた。

これが所謂こども向きの本ではなくて、モノクロで不気味な描写が満載、子供たちの悲劇的な死が淡々と描かれる、、、完全に引き込まれてしまった、、、

絵本なのに一貫してみんな悲壮感に溢れた顔しててそのシュールさがなんとも言えない味を醸し出している。

 

こんな風変わりなジャンルの本もあれば、こびと図鑑のようにユニークすぎる生き物を描いた作品や、てぶくろみたいに種を越えた共存を謳った優しい作品もある。

 

本当にバラエティに富んでいて、どハマりする理由もわかる。

 

小説の強みは心情描写を一つ一つ理解できる緻密さ精巧さだけど、

それに対して、絵本はもっと直接的に原始的な方法で感覚に訴えかける。

ワクワク、やさしさ、畏れ、哀しさ、儚さ、、、、

 

そういった感覚へのアクセスの良さは絵本の大きな魅力だと思う。

正直仕事終わりに200ページ以上ある小説を開くのはしんどいけど、すぐに想像の世界に飛び込むことができるなら悪くない。

暖いお茶でも飲みながら独りベッドで絵本と対話するなんて結構贅沢な時間だと思う。

 

 

最近は全く読めていないが、

そんな僕も小学校低学年くらいまで母親に絵本を毎晩読み聞かせてもらっていた。

怪物たちのいるところすてきな三にんぐみ注文の多い料理店なんかは、僕にとっての名作中の名作。

真夜中、摩訶不思議な世界への遊覧飛行。

 

そういった絵本たちは僕に夢を抱かしてくれた。

気づけていないだけで一歩路地に入ると、きっと自分の知らない未知の世界が広がっていてこの世界と違うシステムで動いているのではないか。

幼少期の頃、そんなことばかり考えていた。

 

そんな昔と比べると大人になった今、状況は変わった。

心は擦り切れてきている。

かなり先まで明確に研修プログラム定められており、限定的な将来選択しかできない未来。

そして試験に向けての不毛とも思える程無限の知識の詰め込み。

試験が終われば労働基準法なんてあってないような労働が始まる。

これが40年以上続く。

今いる自分の立ち位置を認識すると目が眩みそうだ。

 

将来への期待値は下がり続けるばかりで苦しくなる。

 

自分を取り巻く世の中や自分自身のポテンシャルに対しての絶望が人を不感人間にさせると思う。

 

僕は、多感さは絶対に捨てたくない。

たとえ周りから子供ぽい、早くオトナになれと言われようとも。

 

でも染まりやすい自分のことだから、今後仕事で忙殺されたらどんどんそんな子供要素は失われていくだろう。

やるべき仕事は無限にあるが、心からやりたいことがない、、

そんな空虚な状態になってしまう。

 

だから子供の自分に帰る場所を用意したい。

 

それが絵本だったりするのじゃないだろうか。

 

仕事が始まる前に僕のネバーランドを準備しておこう。

まだまだ迷路の中

人それぞれ根源的な欲望は違う。

 

世の法則や仕組みを理解したい。

人と勝ち負けで競って勝ちたい。

自分が考案した構想を世に実現したい。

周りからチヤホヤされたい。。。

色々あるだろう。

 

僕の場合、自分の感情に素直に今を生きたい。

込み上げる情熱に身を委ねて仕事したい。

 

といった気持ちが人より強いように感じる。

 

ここ数年間は、今後の人生で真に情熱を捧げれるテーマを探してきた。

ただ、依然として迷走中だ。

 

試しに大学中やったこと挙げてみると、

完全に行き当たりばったりな海外1人旅敢行(トラブルと思わぬ出会い)

とことん性に奔放になってみる(大きな学びと引き換えに性病罹患)

後輩とか同期を募ってバーを開こうとしてみる(途中頓挫)

怪しいネット物販事業に手を出す(詐欺に遭う)

借金返すため友人と2人屋台(学祭で一番売り上げる)

想い人を追いかける(大成功のち大失恋)

アクリル画を描く(1年やって現在休止中)

休学して放浪か絵の学校検討(親から止められ渋々保留)

失恋の反動でUSMLE頑張る(休止中)

友人と男同士で狭い部屋で共同生活(仲深まる)

釣り(田舎生活での新しい遊びを獲得)

ギター(下手なりに1年継続中)

歌・ボイトレ(上手くはないが継続)

 

その時の感情と衝動を大事にして、心が赴くままにたくさん馬鹿なことをやってみた。

真剣に馬鹿やったことは思い返しても後悔はない。

それに飲み会で笑い取れる強力なネタとなった。

これは僕の個性を形作る大事な要素だ。

 

色々とやってみて気づいたのだが、

 

僕のやりたいことは超抽象的にまとめると、

『親友とともにアイディアを出し合いながら何かを制作することに全力を注ぐ。

そしてユニークな方法で価値を生み出して、周りを感動させることだ。』

 

絵をやり始めたのも言葉が通じなくても芸術を通して共同作品を作れるからだ。

音楽も同じ理由。

言葉を超えて世界中の人と深いところで繋がれるはずだから。

 

世の中の作家さんみたいに何か伝えたいものが先行して表現をはじめたわけじゃない。

ただ純粋に、仲間と斬新な面白いことをやりたい。

そしてユニークかつ感性に根ざしたツール、自分がワクワクできるものとして芸術を少し齧ってる。

 

一緒に仕事しようといってる仲間は数人いる。

でもお互いの都合で実際に動けるのは、まだまだ先になりそうだ。

 

だからこそ今は、自分を知り、より自分の心を鷲巣噛むものは何か見つけるために、

目の前に転がるチャンスに片っ端から飛びつくべきだ。

 

自分探しで気を揉み続けて気がつけば26歳になってて、正直病みそうだけど、

ただ指を加えて家で悩んでて答えに近づいた経験は皆無だ。

 

だから、なんでも偏見持たず飛び込み続ける姿勢持ち続けよう。

 

今後2年は研修医として現場の仕事に忙殺されることになる。

全国でも有数に忙しい野戦病院だ。

寝る暇もなく、動き続ける事もあるだろう。

だからこそ、これまでの欠伸が出るような学生実習とは比にならない濃厚な経験ができる。

 

現場で感じたことがあれば来年からもぼちぼちブログで綴っていきたい。

 

全てフィクションなので倫理観とか医者はこうあるべきとか度外視で。

 

医学の勉強未だ楽しめず

医学部の勉強は何かを考えて思考して生み出して問題を解くというよう感覚ではなく、中高の社会を解いていくような感覚。

 

積み上げた経験に顕著に比例するので、偶然知っていたから解けたとかはあるかもだけど、知らないのに考えたら解けることなんてほとんどない。

 

知ってるか知らないかで乗り切れるけど、言ってしまえばそれだけ。

結構無機質な暗記ゲー要素が強い。

 

だから国家試験対策には4000とか5000問くらい解いて該当疾患の基本的情報や選択肢について丸々暗記しないといけない。

 

無限に問題解いて調べて要点まとめて忘れて覚えて忘れて覚えての繰り返し。

 

きっと医者になっても、出会った疾患についてガイドラインや論文を調べて治療決定して、治療オーダー出して、結果見て治療プロトコールにある範囲内で軌道修正して、、

なんて作業を淡々とこなしていくことになると思う。

 

仕事は絶対ワクワクしながらやりたいし、この作業ばかり続けてたら疲労していって目の輝きが失われていきそう。

友達と楽しみながらやりがいある仕事したい。

今後の方針を考えないと。

すぐには答えは出ないかもだけど。

 

現時点で医学の勉強を面白いと思えてないってことは、別の側面や枠組みに面白さを見出すべきなんだろう。

情報の海で溺死寸前

衝動に任せて漫画読み放題サイトを漁って

ネットフリックス

アマプラ

ポルノ

 

繰り返すループで心は摩耗して

感覚は鈍麻する

 

情報に触れないと不安になる

でも特に何か知りたいとかじゃない

ただ摂食障害のように脳味噌にジャンクな情報詰め込む

ニュース記事

YouTube

スキップしながらただただ流しみる

何一つ残らないのに数で満たす

 

心は空虚になっていく

目の輝きは失われていく

自分で自分を見放してしまいそうだ

 

気がつくとあと4年で20代は終わる

 

まだ何もしていないのに。

怒ることって悪いこと?

最近つくづく怒りとは何かについて考えることがある。

これまで自分は怒りという感情を抱けど人に対してぶつけることは避けてきた傾向があるし、どちらかといえば人と感情のぶつかり合いが起こる可能性を感じ取るとすぐさま関係を断つか、何も気にしてないような振りをしてやり過ごしてきたわけで、中々に外に出してこなかった感情だった。

ついこの前、長年付き合った恋人と将来の生活の話をしたのだが、それぞれの結婚生活や人生観に対して大きな相違があったため、結果的に別れることになってしまった。

そして、その元恋人がとても怒りの感情を露わにする人で、自身の仕事のキャリアをどこで何年築き上げるか、子供を何歳で作るか、どのように育てるか、旦那にはどんな仕事をして欲しいのかなど人生に対してのビジョンが非常に明瞭な人だった。

人生に対して夢・ロマン・面白さを求める厨二病気質のある僕は、彼女の人生設計のあまりの明瞭さに目が眩み、不確定な自分の人生に関しての抽象的な願望を言うばかりで、全然同じ土俵では話せなかった。

正直、まだ人生に対して明確な指針がこの年で立っていないのは焦るべきなのだろうが、慌てても仕方ないし、自分らしく生きようと思う。

ただ、この話し合いの中で、彼女がぶつけてくれた怒りに対して理不尽さを感じながらも確かな愛を感じることができたし、最終的にはどうであれ、自分自身も珍しく怒りを織り交ぜて主張をぶつけることでこれまでより一層深い関係になれたように感じた。

怒りに対してのポジティブな側面に改めて気付かされ、怒りの奥深さの一端に触れた気がする。

怒りについて独断と偏見を交えながら考え、さらに怒りと上手く付き合っていく方法について言及していけたらなと思う。

 

 

そもそも怒りという感情は、その度合いも質も状況によって異なってくる。

気分を害するようなことを言われた時に抱くイライラした感情や、家族に大事にしていた漫画を捨てられた時に抱く感情、大好きな人に期待を裏切られた時に抱く感情、自分のせいではないのにバイトのミスを転嫁されて頭ごなしに怒られる時に抱く感情、自己の将来の自由が社会の大きな枠組みによって過度に制限されている時に抱く感情など、枚挙にいとまがない。

ただ、これらの怒りの例の共通する部分として、怒りとは外からの心理的侵害に対しての自己防衛のために引き起こされる心身の状態のことを言う。

怒りは衝動的に生じてしまうものもあれば、認知して判断する過程を経由するものもある。

快・不快の感情に起因するものや、心に対して瞬時に過度のストレスがかかった場合に起こるものは衝動的な怒りであり、全て洗いざらい出してしまうと正常に社会生活ができなくなるため、社会的成熟とともに表出しなくなる怒りだ。

一方で、認知と判断を経由して生じる怒りというのは衝動的な怒りと比較すると高次の怒りで、先程挙げた中では、理不尽さに起因する最後の二つの例が典型的だと思われる。

これらの怒りは育ってきた環境の中での社会規範に基づくことや、自我の成熟が背景にあり、表出すべき怒りだと考えられる。

もちろん衝動的な怒りも極端に抑え込むことは精神的な苦痛の増大に繋がるため、適度に表出するか、代替の発散手段を講じるべきであるとは思うが。

だが、高次の怒りは場面を選んで適切な仕方で表出することが出来れば人間関係を深めるために必要な建設的な怒りに変化させることができる。

 

 

怒りが原因で人間関係がうまくいかなくなる原因の多くは怒りの表出方法にあるのではないだろうか。

僕には一緒にバカなことができる仲の良い友人が一人いたのだが、数年前に怒りの表し方が一因で互いの関係にヒビが入ってしまい、彼とは未だに気まずい関係のままである。

海外旅行に一緒に行くほど仲の良い彼には一つ問題があった。

怒りを抱え込んで関係のない場所にぶつける性質を持っていたのだ。

普通に考えればまずいと思うのだが、彼は恋人と破局した時に感じた怒りを、サークルの飲み会で彼と全く面識のない僕の親友にぶつけたのである。

彼の中では積もり積もった怒りを抱えるのが限界で爆発させたのであろうが、周囲からすると唐突に何の前触れもなく初めましての人に過剰なほど激昂している彼を見て狂人の類いではないだろうかと思うに違いない。

この事実を知ったのは彼が引き起こした騒動が収まって数ヶ月経った後で、僕と彼の間には既にかなり大きな溝が形作られてしまっていた。

僕は僕なりの怒りをぶつけるべきだった。

翌日なぜ怒ったのかを聞いたが、僕の親友が彼に対して侮辱したとの一点張りで、具体性のかけらもない回答が返ってくるだけだった。

それに対して、ああそうかと怒りを抑えていつも通りの素振りをするのではなく、「自分は訳もわからない理由で親友を傷つけられて憤慨しているのだ、本当の理由を教えろ」と迫るべきだった。

そうすれば、彼の抱えていた問題を早いタイミングで洗い出して理解することができたかもしれない。

結局巨大な怒りは抑えつけたところですぐには消えてくれないし、言えず仕舞いのまま彼と元通り振舞おうとして失敗するくらいなら、反論を恐れずに言いたいことをはっきりと言ったほうが良い。

そもそも彼は恋人に対してその場で怒りの感情をぶつけることを避けていたようだし、抱いた怒りを僕ら友人のような第三者に開示して怒りのガス抜きをすることもなかったのも問題だ。

自分の弱みをさらけ出せるほど信頼されていなかったのか、弱みをさらけ出すことで友人関係が崩れることを危惧していたのか、どちらにせよ一人の気の置けない友人として僕に相談して欲しかった。

彼の恋人に対する怒りも僕の彼に対しての怒りも両方とも間違いなく高次の怒りであり、それぞれ表し方を間違った結果、このような結末を招いてしまった。

一方は怒りの転嫁、もう一方は怒りの抑制である。

もしそれぞれが怒りを上手く表出させることが出来ていたのならば、もっと深いところで繋がれる友人関係を構築できていたかもしれない。

そう思うと、怒りの表出方法の重要性を強く感じる。

 

 

怒りの表出方法は多彩ではあるが、いくつかのパターンに落とし込むことができる。

その中でも、多くの人が理想的だと考えている方法と、実際に頻繁に用いられている方法について紹介する。

日本のある大学での調査では6割以上の人が理想とする表出方法として理性的な説得をあげている一方で、実際に怒りを感じた時には理性的説得ができる人は1割程度だということが明らになった。

怒りを感じた時にはいつも通り接する人が2割、感情的攻撃をする人が2割となった。

家族間では親しい関係性が影響して、怒りの表出が制御できずに感情的攻撃が最多の表出方法となった。

ここからわかるのは、怒りはあくまで主観的なものであり、客観性を持たせた理性的説得をするためには怒りの感情的コントロールがある程度必要だということだ。

もちろん怒りを通して互いに感情的にぶつかることも関係を深める上で大事かもしれないが、表出の際に感情的攻撃の割合が増えるにつれて、信頼関係の強固さが前提として必要となってくる。

だからこそ、怒りをあらわにしたことのない間柄では特に、言論による論理的な指摘が一番適切なのではないだろうか。

その場の感情に任せて行動してしまうと後々災難を引き起こしてしまう可能性があるので、まず第三者への相談を挟むことがベストだと思うが、中立的な視点から自分の感情に正当性を持たせることは必要な過程だ。

もちろん、怒りをぶつける対象が必ずしもしっかり怒りを受け止めてくれるとも限らない。

立場が平等とは限らないし、目上かもしれないし、短気な人かもしれないし、逆に人に怒りをぶつけ慣れている人で押し負けるかもしれない。

こういった場合、感情的攻撃では逆に自身の立場を危うくする可能性があるため、立場の壁を超えて自身の思いを届ける手段はやはり言論だろう。

言論的に正義で、論理的に正しいこと、社会規範に基づいているという考えがあるのならば、自分の立場がどれほど下でも自身の発言に自信を持つことができる。

もちろん発言することでどれくらい反感を買って、どれほど不利益を被るかは天秤にかけるしか仕方がないとは思うのだが。。。

高次の怒りの表出では必要な認知過程を2段階に分けることができ、1段階目は怒り行動を首尾良く実現できる信念(自己効力)、2段階目は行動実行後の出来事についての予期(結果予期)である。自己効力が高く、結果予期がポジティブな人の例としては、肉体的に恵まれた人や口論が上手い人などが挙げられる。

誤解を恐れずに言うのなら、喧嘩が強そうで肉体的に威圧感のある人なら相手から食ってかかられることも少ないだろうし、口上手な人はどう来ても丸め込める自信があるから怒りをすぐ露わにできるのである。

つまり、自己効力と結果予期の両方が高ければ怒りを表出させることができるのだ。

順序立ててしっかりと自己の怒りの正当性を論じられるのならば、自己効力と結果予期は必然的に高くなるので、理性的説得は怒りの上手な表出方法なのだろう。

 

最後に、怒りの鎮静化について論じる。

怒りの表出について述べたが、日常で抱く全ての怒りを露わにして生きていたら人を徒らに傷つけるばかりで、社会の中で生きていくことはできない。

節度が必要だし怒りを鎮静させるための手段が必要である。

怒りは生じた直後、燃え盛る炎のような状態であり怒りを自覚することによって強く増幅すると考えられており、相手に対しての攻撃行動に出てしまう危険性もある。

対策としては怒りを認識することを避けるために、運動するなどストレス発散手段を講じることが適切である。

怒ってからしばらく経つと、怒り自体は静まらないものの手がつけられない状態からは脱する。

このステージでは、怒りを自覚することでは怒りの促進にはつながらないものの、怒りを高めてしまうような認知方法が怒りの肥大を促進すると言われているので、友人への相談などで得た客観的意見を元にして起こった出来事を合理的に解釈することが必要である。

さらに時間が経過すると、攻撃行動に出るリスクはほとんどなくなり、怒りはかなり鎮静化して過去の経験のように話す段階にまで落ち着く。

ただ、怒りが完全になくなったわけではなく、依然として心の中にくすぶっている状態なので、消し去ることを目的として、他者に話すことなどの社会的共有や筆記開示などの方法が効果的と考えられている。

 

では、怒りを鎮静化する行為の中でもとりわけ高度な行為である、許すとはどういうことなのだろうか。

「自分を傷つけた相手や出来事に対してのネガティブな感情を自ら解き放つこと」と定義されることもある。

これは怒りが時間によって意識されなくなるまで鎮静化して、忘れるということではなく、もっと積極的な行為に基づくものである。

許すためにはいくつかの要素が必要と言われている。

怒りや悲しみを自覚して受け入れること、相手に対しての自身の欲求を諦めること、相手への考え方を変える・共感する、相手と自分に関しての新しいストーリーを作る、などが挙げられる。

相手から謝罪を受けて許すという一連の流れでは、謝罪を受けることによって相手への共感が促されて相手の責任の軽減が起こるからという説がある。

許すことができるのは、家族や友人や恋人といった親しい間柄の相手に対しての場合が多く、見ず知らずの他人に対しては頻度が低いことからも裏付けられる。

もちろん時間が経つほどに許しやすくなる傾向はあるにしても、必ずしも時間が経ったからあらゆる相手や出来事を許せるようになるわけではない。

怒っている際に怒りを肥大させるような認知をした場合、第三者に共有ばかりして本人と関わることを避けてしまった場合など、実際に時間が経っても許せないケースに繋ってしまう可能性が高いようだ。

友人だった彼との問題は、互いに自己抑制をして話し合いを拒んでしまった結果、後者のような振る舞いをとってしまったため、未だに溝が埋まっていないのかもしれない。

一方で、最終的に許しに繋がるケースとしては、客観的に状況を認識して合理化したところ自分にも非があったと認めることができた場合、相手と話し合って原因究明をした場合、怒りを言葉でぶつけ合った場合などである。

僕の今回の恋人との破局は人生で初めて本格的に互いの怒りをぶつけ合った経験だったし、自分に沢山の非があることが理解できるからこそ、相手に対して感謝こそすれ、怒ることなどもうない。

怒りの感情をたくさん言葉によって伝えあったからこそ自分は相手を許すことができたのだろうと思う。

あとは、相手の認知が怒りの炎に油を注ぐような方向に働いていないことを祈るばかりだが。。。

 

 

結果的に言えることは、怒りを強く抑制して怒りと反対の行動をとっていては相手を許すことはできないということだ。

ここでの許しとは、自分の内面から出る真なる許しのことを指し示している。

相手との折り合いが悪くなるからとか反抗したらどうなるかという類いの許しは、僕は許しではないと思う。

そんなものは本当の意味での諦めである。

相手を真に許したいのならば、正しく出来事を認知して相手に対しての共感性を持つか、相手と怒りでぶつかり合うしかない。

ただ、ぶつかり合った経験もなしに、自分とは全く違った人間に対して本当の理解を寄せるのは至難の業だ。

だからこそ、親しくなりたい人には勇気を振り絞って怒りをぶつけるべきだし、その過程を経てこそ相手と深い関係を築くことができるのだ。

小児科の学生実習

 小児科での学生実習をつい先日終えた。

1ヶ月ある実習のうち、前半は大学病院、後半はいくつかの選択肢の中から好きな市中病院を選ぶことができるのだが、後半の病院実習では得たものが大きかった。

僕が後半で伺った病院は、県の端っこにある過疎化が進んだ町の病院なのだが、周辺の町からも患者さんが多く来院され、地域の中核を担っていた。

140床ほどの総合病院で、海から100メートルも離れていないため病棟からオーシャンブルーの海が見える。

職員さん・患者さんともに朗らかな方が多く、明るく素敵な雰囲気の病院だった。

 

大学病院で小児科を回らせていただいたこともあったが、その時は小児の白血病や脳腫瘍といった、重篤で専門的な疾患の患者さんが多いことや、医師一人当たりが担当している患者数が多かったこともあり、とにかく先生方は必死に走り回っておられた印象を受けた。 

一方で、今回の病院は入院患者が二人程度であり、日々の業務は外来メインであったこともあり、比較的時間がゆっくりと流れており、外来に同席させていただいた僕に先生も沢山お話下さった。

 

大学には、診断名がある程度ついている希少疾患・専門疾患の患者さんが多く来られるため、外来といっても専門外来となる。一般的な開業医の小児科の先生が見られるような咽頭炎や胃腸炎などではなく、白血病のアフターフォローや筋ジストロフィーの方などを見せていただいた。この専門外来も、教科書で習ったような特徴的な希少疾患を実際に勉強させていただくことができる良い機会ではあったのだが、同時に、一般的な大多数の小児科医が行っているような小児科診療が見てみたいと強く感じた。

 

そこで、後半は前述の病院に伺おうと思った。さらに、山・川・海が好きな自分にとってそれらを満喫できるのならば、最高ではないかと思い選択した。

病院があるのは海沿いの町なのだが、陸から急峻な山が覆い被さるように迫ってきている独特の地形であり、古くから一大聖地とされている神社が山の中にある。町には巨大な奇岩があり、神様と祀られており、年数回ある祭事で巫女様が奇岩の元で美しい神楽を舞う。晴れの日は、海沿いをドライブすると本当に気持ちがいい。一本道が果てしなく続いていて、海に目を投じると空の青と海の青が溶け合っているように感じられる。雨の日は、それはそれで趣あふれる。霧が険しい山々を包み込んで、深緑の森の主張が強くなり、あぁここには神様が住んでいるのだと、不思議と納得してしまうような空気感が広がっている。

 

ただ、この町は都会からかなり離れているため、過疎化が進んでおり、小児科にかかる患者数はかなり少ないだろうと想定していたが、実際、かなり患者数は多かったし、疾患も恐らく大都会の小児科病院と変わらないと思われた。

8割がアレルギー・アトピー咽頭痛・発熱であった。

大学病院がある場所とはかなり気候や地域特性が違うが、たまにマムシに噛まれてくる患者さんがいるくらいで、診るべき疾患はほとんど変わらないことに驚いた。

ただ、大学と違うのは、診断があらかじめなされていない患者さんがほとんどだということだ。

概ね、ただの風邪やアレルギーなどであるが、時に極めて重要な疾患を抱えた患者さんが来院される。

僕が二週間いる間に、外来で来院された方が一人、川崎病と診断された。

 

川崎病は、原因不明の全身性の炎症疾患であり、最も注意すべき症状として、冠動脈瘤がある。

川崎病を引き起こす機序が不明ということから、病気が引き起こす症状から定義されている。

ざっくりと言うと、発熱・発疹・目が赤くなる・苺のような舌・手足の腫れ・首のリンパ節の腫れの6症状のうち、5つ満たしていれば川崎病となる。

ただ、必ずしも5つ満たさず不全型川崎病と診断される場合がある。不全型川崎病でも心臓に障害を起こす確率は典型の川崎病と同じなのである。さらに、発症5病日以内に治療しないと冠動脈瘤ができやすくなるなどの特徴もあり、外来の場で鑑別できるかどうかは非常に重要なのだ。

 

今回はこの条件のうち2つしか満たしていないにもかかわらず、頭部CTで出た咽頭の所見が川崎病ぽいという理由で、入院となった。

初め僕は疑っていたのだが、数日して見事的中した。

川崎病症状が出だして、ベストタイミングで治療に踏み切ることができたのだ。

本格的に症状が出る前に、川崎病と判断した先生の内科医としての有能さに感動した。

ただ闇雲にガイドラインに従うだけではなく、さまざまな文献や実際の診断経験を通してその病気を熟知して、その病気の雰囲気を知っておくことが重要だと気付かされた。

その際には、できるだけ思考の足がかりを作る必要がある。もちろん鑑別が急がれる疾患は川崎病だけではないが、複数の疾患を想定して、それぞれの差異を浮き彫りにするにはどのような問診・身体所見・検査を行えばいいのかを理解しておく必要がある。

要は、どれだけの物差しを用意して考察できるのかである。

先生はその物差しをしっかり用意していたため、普通見逃してしまうような画像所見から川崎病と確信することができたのである。

 

地域の病院で外来を見学させていただいたが、全身の疾患が来るため、勉強する分野の幅が広くて充実していた。

先天性の疾患、神経疾患のてんかん、胃腸炎、多様なアレルギー、成長障害など多岐に渡っていて、別個の分野として勉強していた疾患が横につながったような感じがした。

それに、学校や家庭での相談なども多く持ちかけられるのは、地域に根ざした病院特有だった。

そういった悩みにも答えていくような、人間的な診療がなされていて素敵だった。

 

小児科医は全身の疾患を診る必要があるため、頭の回転が早く賢い先生が多い印象を受けた。

実習を通して側でその思考法の一端に触れられたのは貴重だった。

そして何より、子供が可愛いく、実習中癒された。