zabitaroのブログ

まじでありのまま

怒ることって悪いこと?

最近つくづく怒りとは何かについて考えることがある。

これまで自分は怒りという感情を抱けど人に対してぶつけることは避けてきた傾向があるし、どちらかといえば人と感情のぶつかり合いが起こる可能性を感じ取るとすぐさま関係を断つか、何も気にしてないような振りをしてやり過ごしてきたわけで、中々に外に出してこなかった感情だった。

ついこの前、長年付き合った恋人と将来の生活の話をしたのだが、それぞれの結婚生活や人生観に対して大きな相違があったため、結果的に別れることになってしまった。

そして、その元恋人がとても怒りの感情を露わにする人で、自身の仕事のキャリアをどこで何年築き上げるか、子供を何歳で作るか、どのように育てるか、旦那にはどんな仕事をして欲しいのかなど人生に対してのビジョンが非常に明瞭な人だった。

人生に対して夢・ロマン・面白さを求める厨二病気質のある僕は、彼女の人生設計のあまりの明瞭さに目が眩み、不確定な自分の人生に関しての抽象的な願望を言うばかりで、全然同じ土俵では話せなかった。

正直、まだ人生に対して明確な指針がこの年で立っていないのは焦るべきなのだろうが、慌てても仕方ないし、自分らしく生きようと思う。

ただ、この話し合いの中で、彼女がぶつけてくれた怒りに対して理不尽さを感じながらも確かな愛を感じることができたし、最終的にはどうであれ、自分自身も珍しく怒りを織り交ぜて主張をぶつけることでこれまでより一層深い関係になれたように感じた。

怒りに対してのポジティブな側面に改めて気付かされ、怒りの奥深さの一端に触れた気がする。

怒りについて独断と偏見を交えながら考え、さらに怒りと上手く付き合っていく方法について言及していけたらなと思う。

 

 

そもそも怒りという感情は、その度合いも質も状況によって異なってくる。

気分を害するようなことを言われた時に抱くイライラした感情や、家族に大事にしていた漫画を捨てられた時に抱く感情、大好きな人に期待を裏切られた時に抱く感情、自分のせいではないのにバイトのミスを転嫁されて頭ごなしに怒られる時に抱く感情、自己の将来の自由が社会の大きな枠組みによって過度に制限されている時に抱く感情など、枚挙にいとまがない。

ただ、これらの怒りの例の共通する部分として、怒りとは外からの心理的侵害に対しての自己防衛のために引き起こされる心身の状態のことを言う。

怒りは衝動的に生じてしまうものもあれば、認知して判断する過程を経由するものもある。

快・不快の感情に起因するものや、心に対して瞬時に過度のストレスがかかった場合に起こるものは衝動的な怒りであり、全て洗いざらい出してしまうと正常に社会生活ができなくなるため、社会的成熟とともに表出しなくなる怒りだ。

一方で、認知と判断を経由して生じる怒りというのは衝動的な怒りと比較すると高次の怒りで、先程挙げた中では、理不尽さに起因する最後の二つの例が典型的だと思われる。

これらの怒りは育ってきた環境の中での社会規範に基づくことや、自我の成熟が背景にあり、表出すべき怒りだと考えられる。

もちろん衝動的な怒りも極端に抑え込むことは精神的な苦痛の増大に繋がるため、適度に表出するか、代替の発散手段を講じるべきであるとは思うが。

だが、高次の怒りは場面を選んで適切な仕方で表出することが出来れば人間関係を深めるために必要な建設的な怒りに変化させることができる。

 

 

怒りが原因で人間関係がうまくいかなくなる原因の多くは怒りの表出方法にあるのではないだろうか。

僕には一緒にバカなことができる仲の良い友人が一人いたのだが、数年前に怒りの表し方が一因で互いの関係にヒビが入ってしまい、彼とは未だに気まずい関係のままである。

海外旅行に一緒に行くほど仲の良い彼には一つ問題があった。

怒りを抱え込んで関係のない場所にぶつける性質を持っていたのだ。

普通に考えればまずいと思うのだが、彼は恋人と破局した時に感じた怒りを、サークルの飲み会で彼と全く面識のない僕の親友にぶつけたのである。

彼の中では積もり積もった怒りを抱えるのが限界で爆発させたのであろうが、周囲からすると唐突に何の前触れもなく初めましての人に過剰なほど激昂している彼を見て狂人の類いではないだろうかと思うに違いない。

この事実を知ったのは彼が引き起こした騒動が収まって数ヶ月経った後で、僕と彼の間には既にかなり大きな溝が形作られてしまっていた。

僕は僕なりの怒りをぶつけるべきだった。

翌日なぜ怒ったのかを聞いたが、僕の親友が彼に対して侮辱したとの一点張りで、具体性のかけらもない回答が返ってくるだけだった。

それに対して、ああそうかと怒りを抑えていつも通りの素振りをするのではなく、「自分は訳もわからない理由で親友を傷つけられて憤慨しているのだ、本当の理由を教えろ」と迫るべきだった。

そうすれば、彼の抱えていた問題を早いタイミングで洗い出して理解することができたかもしれない。

結局巨大な怒りは抑えつけたところですぐには消えてくれないし、言えず仕舞いのまま彼と元通り振舞おうとして失敗するくらいなら、反論を恐れずに言いたいことをはっきりと言ったほうが良い。

そもそも彼は恋人に対してその場で怒りの感情をぶつけることを避けていたようだし、抱いた怒りを僕ら友人のような第三者に開示して怒りのガス抜きをすることもなかったのも問題だ。

自分の弱みをさらけ出せるほど信頼されていなかったのか、弱みをさらけ出すことで友人関係が崩れることを危惧していたのか、どちらにせよ一人の気の置けない友人として僕に相談して欲しかった。

彼の恋人に対する怒りも僕の彼に対しての怒りも両方とも間違いなく高次の怒りであり、それぞれ表し方を間違った結果、このような結末を招いてしまった。

一方は怒りの転嫁、もう一方は怒りの抑制である。

もしそれぞれが怒りを上手く表出させることが出来ていたのならば、もっと深いところで繋がれる友人関係を構築できていたかもしれない。

そう思うと、怒りの表出方法の重要性を強く感じる。

 

 

怒りの表出方法は多彩ではあるが、いくつかのパターンに落とし込むことができる。

その中でも、多くの人が理想的だと考えている方法と、実際に頻繁に用いられている方法について紹介する。

日本のある大学での調査では6割以上の人が理想とする表出方法として理性的な説得をあげている一方で、実際に怒りを感じた時には理性的説得ができる人は1割程度だということが明らになった。

怒りを感じた時にはいつも通り接する人が2割、感情的攻撃をする人が2割となった。

家族間では親しい関係性が影響して、怒りの表出が制御できずに感情的攻撃が最多の表出方法となった。

ここからわかるのは、怒りはあくまで主観的なものであり、客観性を持たせた理性的説得をするためには怒りの感情的コントロールがある程度必要だということだ。

もちろん怒りを通して互いに感情的にぶつかることも関係を深める上で大事かもしれないが、表出の際に感情的攻撃の割合が増えるにつれて、信頼関係の強固さが前提として必要となってくる。

だからこそ、怒りをあらわにしたことのない間柄では特に、言論による論理的な指摘が一番適切なのではないだろうか。

その場の感情に任せて行動してしまうと後々災難を引き起こしてしまう可能性があるので、まず第三者への相談を挟むことがベストだと思うが、中立的な視点から自分の感情に正当性を持たせることは必要な過程だ。

もちろん、怒りをぶつける対象が必ずしもしっかり怒りを受け止めてくれるとも限らない。

立場が平等とは限らないし、目上かもしれないし、短気な人かもしれないし、逆に人に怒りをぶつけ慣れている人で押し負けるかもしれない。

こういった場合、感情的攻撃では逆に自身の立場を危うくする可能性があるため、立場の壁を超えて自身の思いを届ける手段はやはり言論だろう。

言論的に正義で、論理的に正しいこと、社会規範に基づいているという考えがあるのならば、自分の立場がどれほど下でも自身の発言に自信を持つことができる。

もちろん発言することでどれくらい反感を買って、どれほど不利益を被るかは天秤にかけるしか仕方がないとは思うのだが。。。

高次の怒りの表出では必要な認知過程を2段階に分けることができ、1段階目は怒り行動を首尾良く実現できる信念(自己効力)、2段階目は行動実行後の出来事についての予期(結果予期)である。自己効力が高く、結果予期がポジティブな人の例としては、肉体的に恵まれた人や口論が上手い人などが挙げられる。

誤解を恐れずに言うのなら、喧嘩が強そうで肉体的に威圧感のある人なら相手から食ってかかられることも少ないだろうし、口上手な人はどう来ても丸め込める自信があるから怒りをすぐ露わにできるのである。

つまり、自己効力と結果予期の両方が高ければ怒りを表出させることができるのだ。

順序立ててしっかりと自己の怒りの正当性を論じられるのならば、自己効力と結果予期は必然的に高くなるので、理性的説得は怒りの上手な表出方法なのだろう。

 

最後に、怒りの鎮静化について論じる。

怒りの表出について述べたが、日常で抱く全ての怒りを露わにして生きていたら人を徒らに傷つけるばかりで、社会の中で生きていくことはできない。

節度が必要だし怒りを鎮静させるための手段が必要である。

怒りは生じた直後、燃え盛る炎のような状態であり怒りを自覚することによって強く増幅すると考えられており、相手に対しての攻撃行動に出てしまう危険性もある。

対策としては怒りを認識することを避けるために、運動するなどストレス発散手段を講じることが適切である。

怒ってからしばらく経つと、怒り自体は静まらないものの手がつけられない状態からは脱する。

このステージでは、怒りを自覚することでは怒りの促進にはつながらないものの、怒りを高めてしまうような認知方法が怒りの肥大を促進すると言われているので、友人への相談などで得た客観的意見を元にして起こった出来事を合理的に解釈することが必要である。

さらに時間が経過すると、攻撃行動に出るリスクはほとんどなくなり、怒りはかなり鎮静化して過去の経験のように話す段階にまで落ち着く。

ただ、怒りが完全になくなったわけではなく、依然として心の中にくすぶっている状態なので、消し去ることを目的として、他者に話すことなどの社会的共有や筆記開示などの方法が効果的と考えられている。

 

では、怒りを鎮静化する行為の中でもとりわけ高度な行為である、許すとはどういうことなのだろうか。

「自分を傷つけた相手や出来事に対してのネガティブな感情を自ら解き放つこと」と定義されることもある。

これは怒りが時間によって意識されなくなるまで鎮静化して、忘れるということではなく、もっと積極的な行為に基づくものである。

許すためにはいくつかの要素が必要と言われている。

怒りや悲しみを自覚して受け入れること、相手に対しての自身の欲求を諦めること、相手への考え方を変える・共感する、相手と自分に関しての新しいストーリーを作る、などが挙げられる。

相手から謝罪を受けて許すという一連の流れでは、謝罪を受けることによって相手への共感が促されて相手の責任の軽減が起こるからという説がある。

許すことができるのは、家族や友人や恋人といった親しい間柄の相手に対しての場合が多く、見ず知らずの他人に対しては頻度が低いことからも裏付けられる。

もちろん時間が経つほどに許しやすくなる傾向はあるにしても、必ずしも時間が経ったからあらゆる相手や出来事を許せるようになるわけではない。

怒っている際に怒りを肥大させるような認知をした場合、第三者に共有ばかりして本人と関わることを避けてしまった場合など、実際に時間が経っても許せないケースに繋ってしまう可能性が高いようだ。

友人だった彼との問題は、互いに自己抑制をして話し合いを拒んでしまった結果、後者のような振る舞いをとってしまったため、未だに溝が埋まっていないのかもしれない。

一方で、最終的に許しに繋がるケースとしては、客観的に状況を認識して合理化したところ自分にも非があったと認めることができた場合、相手と話し合って原因究明をした場合、怒りを言葉でぶつけ合った場合などである。

僕の今回の恋人との破局は人生で初めて本格的に互いの怒りをぶつけ合った経験だったし、自分に沢山の非があることが理解できるからこそ、相手に対して感謝こそすれ、怒ることなどもうない。

怒りの感情をたくさん言葉によって伝えあったからこそ自分は相手を許すことができたのだろうと思う。

あとは、相手の認知が怒りの炎に油を注ぐような方向に働いていないことを祈るばかりだが。。。

 

 

結果的に言えることは、怒りを強く抑制して怒りと反対の行動をとっていては相手を許すことはできないということだ。

ここでの許しとは、自分の内面から出る真なる許しのことを指し示している。

相手との折り合いが悪くなるからとか反抗したらどうなるかという類いの許しは、僕は許しではないと思う。

そんなものは本当の意味での諦めである。

相手を真に許したいのならば、正しく出来事を認知して相手に対しての共感性を持つか、相手と怒りでぶつかり合うしかない。

ただ、ぶつかり合った経験もなしに、自分とは全く違った人間に対して本当の理解を寄せるのは至難の業だ。

だからこそ、親しくなりたい人には勇気を振り絞って怒りをぶつけるべきだし、その過程を経てこそ相手と深い関係を築くことができるのだ。